
当時大学4年生だった私は、Kプロで毎日漫画の背景を描く仕事に追われていた。
その頃K先生は週刊連載2本と月刊の連載を数本抱えていて、
先生が激務なのはもちろん、そのアシスタントも激務だった。
私は、その頃2度目の自動車教習所へ通っていて
(教習所は期限が1年なので、期限が切れたら払い込んだ教習代もパァ)
既に一度期限が切れて通い直している状態だったにもかかわらず、
またしても期限が迫っていた。
その上、大学では今のままでは単位が足らず、卒論も提出しなければならない。
留年の瀬戸際だったので授業を休むわけにはいかず、
朝まで仕事をして、風呂も入らずそのまま大学へ行くことも珍しくなかった。

それだけでもキャパを越えていたが、その頃の私を一番悩ませていたのは、当時付き合っていた彼氏の存在だった。
彼にはちょこちょこ他の女の人の影があって、
付き合い始めの頃は、そういう事に腹も立ったけれど、
アシスタントの仕事が忙しくなるにつれて、そういうのが次第にどうでも良くなってきて、
やがて面倒くささに変わった。

しかも彼は、激情型のナルシストで喧嘩のたびに刃物を持ち出したり、ボコボコに殴るタイプの男だった。
何度か別れ話をしたが、いざ別れに話が及ぶと、一層ボコボコに殴られた。
駅のホームから突き落とされそうになったこともあった。
今であれば、その付き合いが常軌を逸していたことはわかるが
ドラゴンボールの悟空が大好きで、まともに男の人と付き合ったことのないおぼこ娘だった私は
「へぇー、これが男女交際ってやつか、刺激的だなぁ」
と、もの凄い勘違いを繰り広げていた。
しかし、今回は違った。

直感的に「あ、刺される」と思った私は

わき目もふらず逃げた
近くの公園に逃げ込み、

一つの結論にたどり着いた

この面倒から解放されるには、刺し違えるしかない
肉を切らせて骨を断つ
そう思った私は
彼氏のアパートへ向かい

そっとドアから覗くと

目に飛び込んできたのは、上半身裸で、
イッた目で自分の体を切りつけている、彼氏の姿だった。

再び、逃げた

逃げた

私は逃げた

その時、私のあたまの中で何かがはじけた。
彼は同じ大学で、同じ学部。
しかも学生数の少ない学部で顔を合わせないことは不可能に近い。
しかし、大学へ行かねば、このままでは卒業も危ぶまれる。
私は思いついた。

それは変装だった。
もう変装して、大学へ通うしかないと思った。
自分で切ったザンバラ髪に、遠視用の眼鏡をかけた。
安易な方法だと思ったが

講堂が広いこともあり、彼氏も友人も私だと気付かない。
こんなにうまくいくとは思ってもみなかった。


ショーウィンドに映る自分の姿を見て、

イケてる。と思った。
私は思いついた。
頭がおかしくなったフリをすれば、
より完璧に彼氏と縁が切れるのではないか…
敵をあざむくには、まず味方から
家族にも決してバレてはいけない

こうして私の猿芝居は始まった
真夏に「寒い寒い」と言って
変な重ね着をして、ひとり言を言い続けた。
そんなわたしの姿を見て
母も父も妹も「きつこの頭がおかしくなった」と信じた
彼氏から何度か電話があったが、
そのたびに、母は
「きつこは電話に出られる状態じゃない」と応対した。
私の猿芝居は、家の中だけじゃなく、

電車の中や

バスの中

とどまるところを知らず、どんどんエスカレートしていった。
この頃の私は、もう自分でこの奇行を止めることが出来なくなっていたのだ。

なぜなら、頭のおかしい人のフリをすることは、ものすごく気持ちが良かったからだ。
電車内や飲食店で、自分の両隣だけ席がガラあきになったり
すれ違う他人が、一瞬ぎょっした顔をして、サッと立ち去ることに陶酔していた。
もう、とにかく気持ちが良かった。
私がそのような姿になって、3カ月程たった頃、

父と母が私の奇行について言い争っていた。
父は、早く病院に連れて行け、と声を荒げていたが、
母は、そんな事が近所に知られたら…と世間体を気にしていた。
しかし、ただ一人、心配していなかったのが

弟である。
ある日、弟は家族の目の前で、
ピンセットに挟んだ5円玉をライターの炎で熱し始め



熱々の五円玉を、私の手の甲にポトリと落とした。






私もつられて笑ってしまった

私の茶番劇は幕を閉じた。
結局、教習所は期限が切れ、大学の留年も決定した。
ただ、その彼氏とは完全に縁が切れたので良かったけれど
同時に、家族との縁も切れた。